2012年4月16日月曜日

神社のすぐ先は原発20キロ圏内の立ち入り禁止ラインだった。

 2011311日以降、宮城県沿岸部の地震・津波被災地を数回訪れて現地を歩いてきた。そこには戦争でも不可能なほどの徹底的な破壊の現場があった。しかし、3.11ではもうひとつの現場がある。それは原発事故によって引き起こされた現場だ。政府が地図上で半径20キロの同心円を描き、その内側は立ち入り禁止ゾーンになってしまった。無人地帯となった地域はあの日から時が止まっている。津波被災地が破壊の現場であるとしたら、20キロゾーンの現場は不条理な現場とでもいえるだろう。
 とにかく、私はフクシマの不条理な現場を自分の目で確かめたかったのだ。もちろん、あてもないので立ち入り禁止ゾーンの内側に入ることはできない。だが、その境界線になら立つことができる。そう思った私は2011年の大晦日に福島に向かった。
 
 大晦日の夜は福島駅前のホテルでゆっくりとすごしていた。23時半ごろに外から除夜の鐘の音が聞こえてくる。二年参りでもしようかとホテル近くの稲荷神社に向かった。まさか2012年の年明けの瞬間を福島で過ごすなんて2010年の大晦日には想像もしていなかった。神社に着いたころにはすでに参拝者で長蛇の列ができていた。参列者の人たちを眺めていても、マスクをしている人は数えるほどしか見当たらない。福島市は31日、毎時0.9マイクロシーベルトを計測していたのに、だ。心配している人間のほうが「おかしい人」だと思われてしまうような空気を感じてしまう。おかしな光景だなと思いつつ、早々とお参りをすまして、ホテルにもどった。

 翌日は南相馬市の原町に移動した。立ち入り禁止ゾーンの境界を確かめるためだ。ここで原町がおかれている状況を確認しよう。原町では町の一部が20キロ圏内に入りこんでしてしまっている。昨年9月30日まではそれ以外の地域も緊急時避難準備区域として実にわかりにくい指定を受けていたが、すでに解除されている。かわりに、1125日に特定避難勧奨地点として町内で22世帯が指定された。話が複雑になってきた。まとめよう。つまり、現在の原町では、原発から20キロにかかる地域は警戒区域として立ち入り禁止ゾーン、それ以外の地域は指定が解除されたので一応は通常の生活が送れるが、数カ所のスポットで危険な場所がある、ということになっているのだ。

 立ち入り禁止ゾーンに向かうために常磐線原ノ町駅から線路沿い南東方向にタクシーで向かった。
運転手によると、10分も走らせれば警戒区域にぶつかるという。

 現地で警戒区域という言葉を聞くとやはり怖い。近づくにつれて心拍数が少し早くなっていた。しばらく車を走らせていると、数百メートル先に鳥居が見えた。そんな先からもはっきり見えるくらいであるからけっこうな大きさである。



「ここはもう警戒区域に近いですよ」

 いよいよである。私は巨大な鳥居をくぐったところで降ろしてもらった。周囲を見渡すと住宅もあり、軽トラックや郵便バイクも走っている。ここでは普通に人が暮らしているのだ。タクシーの中で心拍数が上がってしまった自分が恥ずかしい。すぐ近くに神社があった。多珂(たか)神社という名前だ。なかには参拝者が6人いたが元旦にしては寂しい人数である。私も参拝をさせてもらい、20キロゾーンの境界を探しに歩いた。
 
 神社を出て、右に曲がった。少し坂になっている。数歩進むと、すぐ先に赤字でなにか文字が書かれている白看板が立っている。 


「立入禁止」

 やっぱりそうだ。20キロゾーンの境界線である。目の前が警戒区域であるにも関わらず、今度は不思議と恐怖を感じなかった。キョトンとしてしまったのだ。それはあまりにもあっけなく発見してしまったからだけではない。想像していた光景と違っていたからだ。これまで雑誌やテレビなどで20キロゾーンの境界線にある看板の写真を見てきた。それは、大通りや農道の真ん中に看板が立てられていて、そばに警備隊がいるという写真であった。だが、目の前の光景は違う。集落の路地の真ん中に、住宅地を分断する形で看板は立てられている。警官もいない、頑丈なフェンスがあるわけではない。ガードレールをまたげば簡単に20キロ圏内に入ることができる。それもそのはずである。地図上にコンパスで作成した20キロゾーンを実際の土地で作り上げるためには、境界線の内側に入れないように、路地という路地を塞ぐ必要がある。すべての箇所に人員を割けるわけがない。それにしても、看板とガードレールによって、これまでの暮らしが崩壊してしまう現実はあまりにも不条理である。私がたっている場所と数十メートル先の警戒区域、吸っている空気は全く同じである。

 もう少し20キロゾーンの境界に近づいてみた。目の前に立って、私は思わず、「うっ」と声をあげてしまい、背中が寒くなった。



 境界線の内側では、自然の草木が地面を這うようにして成長していたのだ。まるで人間がいなくなった世界を自然が覆っていこうとしているかのようだ。「人間にたいする自然の復讐」といったら大げさであろうか。だが、私にはそのようなメッセージを感じる。少なくともそこには人間のにおいはしなかった。

 境界を分けているもの、それはたかが看板とガードレールである。けれど、そこを境にして、これほどまでにも見える光景が変わってしまう。境界線の奥はSFのような世界が広がっている。原町の放射線量は毎時0.4マイクロシーベルト程度である。0.9マイクロシーベルトを記録している福島市の半分にも満たない数値である。半径20キロの半円に入り込んでしまったがゆえに人が住めなくなり、風景も一変した。看板とガードレールによって区切られた地域は別世界になっていた。 


 引き返そうとすると、牛の匂いがした。振り返ってあたりをみると、道路を挟んで左右に小さな牛小屋があった。



 警戒区域の境界線からわずか数メートルのところである。近くへ寄ると柵から顔を出してこちらを覗いている。



 子牛のようだ。牛の耳には黄色の耳標が装着している。とういうことは、ここで育てた牛を出荷しているのであろうか。私は気になった。小屋の隣には家があったので、話を聞こうと思ったが、さすがに元旦から騒がしくしてはいけないと思いやめた。だが、ヤマト運輸の宅配トラックが近くに止まっているのを見つけて走った。地域を回る宅配業者ならばなにか事情を知っているかも知れないと思ったからだ。

トラックの運転手によると、牛の持ち主は年齢60~70歳程度で、本業として酪農をやられていたそうだ。現在は飼育はしているが、出荷しているかどうかはわからないという。

しかし、たとえ出荷できているにしても、収入が低くなる現実は避けられていないだろう。本業として取り組んでいた酪農家にとっては死活問題である。20キロゾーンはぎりぎり避けることができたものの、酪農家としての人生は過酷な状況に陥っている。今度またお話を聞きに来ようと決めて、その場を後にした。

 2012年がスタートした。なにかに区切りを付けたようにテレビ、新聞、雑誌では「復興」とい綺麗な言葉で溢れかえるようになるだろう。まるで臭いものに蓋をするかのように。しかし、なにも区切りなんてついていないのだ。綺麗な言葉で隠してはいけない。見なければならない不条理な現実は山ほどある。20キロゾーンの境界線に立ち、不条理な現実を目の当たりにして、日本は本当に変わってしまったと実感したとともに、3.11後の世界を見続けなければならないと強く思った。

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