2012年4月21日土曜日

「いろいろなものがボロボロになった」~30年目の有機栽培農家が失ったもの~(福島で暮らしゆく)



 3,11から1年が経過したいま、東京でテレビ・新聞を眺めていると福島に関する情報は限られたものしか入ってこなくなった。日々、ルーティーンのように流れてくるものは、福島第一原子力発電所でのトラブル、土地や食べ物の放射能汚染情報くらいだろうか。残念なことにそれらの情報も決して十分ではない。ましてや、そのような深刻な現実のなかで暮らさざるをえない人々の姿なんぞはほとんど見えてこなくなった。


 3.11を境に強制的かつ不条理に変化してしまった環境下で、彼ら彼女らはなにを考え、なにに苦しみ、どう生きていこうとしているのか、まったくわからないのだ。


 たまにメディアで取り上げられる「笑顔で頑張る被災者」を見続けると「福島の人は復興に向かって頑張ってる。強い人たちだなあ」と勘違いしてしまいそうである。既存メディアが意図せざる結果として作り上げてしまった擬似現実のなかに登場する被災者がまるですべてであるかのようだ。


 しかし、何度もの福島取材を通じて、擬似現実のなかでは無視されてしまっている人たちが大勢いることを知っている。その人たちの姿を取材し、声を代弁することことは報道の役割として必要なことではないか。そのような思いで継続的に福島に足を運び、自分の目で耳で鼻で確かめ、そこに暮らしている人々のいまを記録している。今回も福島からの報告をする。


30年目の有機栽培農家を襲った、福島第一原発事故



 4月の初旬に田村市船引町に向かった。有機栽培農家である大河原ご夫婦に会いに行くためだ。原発事故後、生産を続けている農家の現状を知りたいと思い取材を申し込んだところ、快く受け入れてくれた。


 市の中心地である船引町までは、郡山市から車で30分ほど北東方面に走らせると到着する。東側は阿武隈高地がつづき、南側には片曽根山がある。壮大な自然に囲まれていて、なんとも気持ちがいい。窓から眺める景色は何度も深呼吸をしたくなるのほどではないのだが、心地よいことは間違いない。


 田村市の面積は東西に長い。最西端の町は20キロ圏内に入っている。4月1日に警戒区域が解除されたばかりだ。


朝日新聞より転載


 
 船引駅で大河原夫妻と待ち合わせた。時間の関係から近くのファミリーレストランでお話を聞いた。鮮やかな赤のボタンシャツにエスニック柄のベストあわせる多津子さん。ジーンズにドット柄のシャツを着こなすご主人の伸さん。お洒落でとても気さくなご夫婦だ。なんでも農業の合間には人形劇の公演というユニークな活動もやっているという。


大河原ご夫妻 (筆者撮影)


 ご主人は6代目として家業の農業を引き継いだ。自分の代になったときに、農薬を使用しない有機農業に変更した。いまから30年前のことだ。結婚して以来、二人で農業に従事してきた。奥さんが就農したのは、26年前。ちょうど、チェルノブイリ事故が発生したときだった。学生時代から環境問題へ関心が強かった奥さんは、チェルノブイリ事故後、いつかの日に備えて放射線測定器(R-DAN)を購入していた。


 環境に気を使い、安心で安全な農法。お米、かぼちゃ、トマト、じゃがいも、人参などなど50種類もの野菜を作り、お客さんとの契約販売で生計を立てていた。5人の子どもにも恵まれ、おいしい食べ物を自給自足する生活を生きがいとしていた


 そんな最中、大河原夫婦を襲ったのが福島第一原子力発電所事故だった。


「いろいろなものがボロボロに崩れていった」



 大河原夫妻は福島第一原子力発電所から直線距離で39キロの地点で農業を営んでいた。3月12日の1号炉爆発時はまだ危機感が沸かなかった。26年前に買った放射線測定器が反応しなかったからだ。しかし、15日の2号炉が水素爆発したその日、いままでうんともすんとも言わなかったR-DAMが突然アラーム音を鳴らし始めた。購入以来始めて聴いたアラーム音だった。


 「とにかく急いで避難しなくてはいけないと思った」大河原さん一家は郡山市の知人の家に放射線測定器を持参して転がり込むように逃げた。


 田村市に戻ってきたのは18日。二号炉が爆発してからから3日後であった。避難先の郡山市の放射線量が上昇し始め、逆に田村市の値が減少したため戻ることを決めた。中学の卒業式を終えたばかりの息子に「家に戻って友達と会いたい」と言われたことも大きかった。


 その後、政府が田村市(一部を除く)の作付け制限を解除したのは2011年4月16日だった。大河原さんはこの場所で農業を続けてよいのかと迷いながらも、作物の栽培を再開させた。作付けしたのは7月から出荷させるための夏野菜だ。


 初夏をむかえ、例年通り有機栽培で育てられた野菜たちは大きく育った。だが、明らかに異なることは放射能という見えない不安の種があることだった。お客さんに安心して食べてもらうために、福島市の市民放射能測定所へと野菜を持ち込んだ。


結果は数字に出てしまった。


(1キログラムあたり)ジャガイモ0ベクレル、たまねぎ0ベクレル、にんじん5.4ベクレル、トマト12ベクレルだった


 トマトでWHO(世界保健機関)が基準値とする一キログラムあたり10ベクレルを超える値が検出されてしまったのだ。当時の日本の基準値である500ベクレル、新基準の100ベクレルと比較すると少ない数値ではあるが、安心安全を追求してきた有機栽培農家としては目を塞ぎたくなる結果であった。


「正直、放射能のことはよくわからなかったんです。味が違うわけではないし、なにが変わるわけでもない。けど、本当に汚染されたと実感したのはトマトで数値が出てしまったときです」とご主人は当時を振り返りながらぽつりといった。


 大河原さんは検出された放射性数値をすべて、販売契約しているお客さんに公表した。


 反応はすぐに出た。いままで直接販売していた43件の顧客のうち、3分の1にあたる14件から契約解除を求められた。安心安全な食べ物を求めて、有機農家である大河原さんから野菜を直接販売をしてもらった方たちだ。安全の部分が侵されてしまえば離れてしまうのは致し方ないが、それでも辛い現実であった。


「30年間、お客さんと信頼関係を築いてきた。単に野菜を届けるだけではない。子育ての相談や、自転車や古着をもらったり、そういう関係でやってきたんです。その関係性が一気に途絶えてしまいました。それは悲しかった。」


 ご主人の話し声はいままでの明るいトーンではなかった。契約を解除した顧客とはそれ以降、一人を除いて連絡を取れていないという


 農家にとってつらく悲しいことは、収入が減って経済的に苦しくなることだけではない。長年築いてきた、人間同士の信頼関係を失ってしまったことがなによりつらいのだ。放射性物質という得体の知れないものによって突如冷酷に引き裂かれてしまった人間関係。30年間積み重ねてきたものが踏みにじられた。


 ご主人はこの一年の出来事を振り返りながら、言葉を漏らした。


「いろんなものがボロボロと崩れていったな。」


 ご主人は気を使って明るい表情で話を続けようとしてくれていた。奥さんの目には涙が見えた。


この日、田村市の放射線量は毎時0.23マイクロシーベルトだった。(筆者撮影)


有機栽培農家としての選択、子を持つ親としての葛藤



 どうしても聞いておきたいことがあった。


「なぜ田村市という原発から遠くはない地域でこれからも有機農業を続けていこうとしているのか」ということだ。


 田村市は郡山市や福島市に比べても放射線量はぐっと少ない地域だ。食品検査の結果、トマトは10ベクレルを超えてしまったが、裏を返せばそれ以外の食物は10ベクレルより低い数値に収まっている。しかし、有機農業という安心安全を売りにしている以上、別の場所で新たに農業をはじめたほうがよいのではないか、私はそう考えていたからだ。


 聞きづらい質問であった。


 短い沈黙があった。ご主人は切実に訴えるように答えてくれた。


移動するといってもAからBにいくといった簡単な話ではないんですよ。やっぱりタテ軸があるんです。土地の歴史、6代目という重み、親戚や地域社会とのつながりといった根っこがこの場所にはあるんです。それらを全部掘り起こして、別の場所に持っていけるならいいんだけど。それにほかの場所でこれだけ長い期間かけて同じ土はもう作れないんですよ


 避難所にいる人たちやメディアからも「原発から40キロの場所で有機農業をやるのか?」と言われることがあるという。だが、歴史が詰まった場所、誇りをかけてきた土地を自らの意思でそう簡単に切り捨てれる気持ちには到底なれないのだ。


 奥さんは、「裂けそうな思い」を話してくれた。「やっぱり捨てられないです。確かに数値を見せられれば健全な土地とは言い切れない。子どもをもつ親としては放射線の値がゼロのものを食べさせたい。だから小さいお子さんをもつ親には買ってほしいとは言えません。ただ、農家としてここで継続していくためには、理解して買ってもらい私たちを支えてほしいという思いがあるんです。」


 100%安心とは言えない放射能への不安。生活をしていくためにここで農業を続けると決心した自らの選択。なにが正当なのかわからないまま「裂けそうな思い」を抱えながら進まなければならない人を前にして相槌しか打つことができなかった。


 30年間積み重ねてきた信頼関係や誇りといったものを踏みにじられてしまった上に、さらに現在と将来への不安がのしかかる。


「私たちには過失はないんですよね。なんでここまで苦しまなければいけないのかな」と奥さんがうつむきながら、つぶやいた。


 下を向いたその表情は不条理な現実への怒りとどうしようもない不安感で滲んでいた。





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