2012年4月16日月曜日

生まれ育った村で暮らしていく決意~新潟県・山古志村のいま~(後編)

中越地震の被災地、山古志村からの報告を続ける。前回は、震災の辛い記憶でもある「水没家屋」をそのまま残していくことを決断した経緯について書いた。詳しくは、前回記事をご覧いただきたい。


「一気にさ、5台くらいダーっとバスが入ってくることがある」

 驚いた表情でそう話してくれるのは、山古志村・木籠集落区長の松井治二さん。

 もの静かな集落に突然大型バスがやってくる。そんな光景は木籠集落ではもう珍しくもないようだ。

 新潟県山古志村・木籠(こごも)集落には震災7年目を迎えたいまも県内外から多数の人々が訪れている。お目当ては災害の痕跡である「水没家屋」だ。



NPO法人中越防災フロンティア」が把握している団体客数だけをみても、2006年から2010年までの年間平均は417人。個人客を合わせるとその数はおそらく倍近くになるだろう。とにかく、わずか10世帯ほどの小さな集落にそれだけの人たちが流れ込んできている。

 大型バスで集落へやってきて、集落内にある交流施設「郷見庵(さとみあん)」で住民手作りの野菜を買い、「水没家屋」の写真をパシャパシャ撮るという一過性の交流で終わってしまうものから、集落の雰囲気がすっかり気に入ってリピーターとなり、継続的に農作業や年中行事を手伝うようになったものもいる。

 どちらのタイプの訪問者も、集落の人たちにとってはありがたい存在なのであろう。帰村後、集落の過疎化は急速に進んだ。村に帰ってきたものの、自力で集落復興を担えるほどの体力は残っていなかった。そんな状況下で、外からやってくる人々は集落にとって必要不可欠な存在となっていることは確かである。

 外の人から継続的にムラづくりにかかわってもらうために、「木籠ふるさと会」という組織を立ち上げている。現在、約150名もの会員が集まっているそうだ。

 外の人間にとって新鮮な農村体験となっていることが、集落住民にとっては集落を維持していくための重要な労力支援になっている。まさに協働のムラづくりだ。中山間地域の復興モデルとしても理想的な形だと扱われることがある。

 だが、どうしても気になることがあった。そこに抵抗感はあるのかどうか。

 震災前であれば、お祭りや行事ごとを除けば異質の他者は集落にはほとんど訪れてこなかったはずだ。来客といっても親族くらいであっただろう。ところが震災を契機に様子は変わった。全く知らない他者がぞろぞろと足を踏み入れてくるようになったのだ。村内に流れるリズムが急速にテンポアップしたかのようだ。

 一見すると理想的な復興の形にみえる。けれども、集落の人は心理的にどのように感じているのだろうか。不躾なことを聞くのには躊躇したが、「知らない人を受け入れる抵抗はないのですか?」と、単刀直入に区長さんに質問した。

「受け入れなければ集落は終わる」

 「抵抗はいまでもありますよ。みんな抵抗ある。それはあるんです。でも、抵抗があるからと言うて、受け入れられなかったら、そしたらその集落は終わるわけです。自分一代はいいです。集落として機能はもうできなくなっていく。」

 あまりに正直な言葉が返ってきて、自分で質問をぶつけておきながら驚いてしまった。外の人間を受け入れることに対する抵抗はある。けれども、なんとかしても長年過ごした場所を守り通したい。その思いが勝つ。

 「こうして骨折って難儀までして集落づくりする必要はない、いくら頑張ったって死ぬときは死ぬんだよと。じゃあなにも骨折って死ぬことはないよ、という考えもあるんだよね。けど、おれは自分がいなくなるから、いまなにかをしていかなきゃ。だめだということがわかったら、だめじゃない方法があるわけだよ。」

 松井さんは笑顔のまま、語尾を強めた。集落が維持できないと思ったから、外から人を引き寄せる方法を次々と考えてきた。水没家屋を残し、交流施設「郷見庵」を建設し、被災体験を地域の一番の売りにしてまでも、生まれ育った場所が廃れていかない方法を探ってきたのだ。たしかに抵抗はある。でも、集落そのものを守っていくためにはそんなこと言っていられない。村が生きていく方法をまず考えなければならない。松井さんはどっしりと構えていた。




木籠集落の世帯数は現在12世帯。震災時の半分に減少してしまった。しかし、松井さんの頭にはアイデアがどんどん溢れてくるようだ。会話の途中、いきなりこんなことを口にする。

「おれはね、ここにね、ほんとに都をつくるくらいの思いで挑戦するんだよ。」

 都ですか?と驚いていると、松井さんは淡々といつものペースで話を進めた。

 「いまの世の中のことを考えてみれば、みんなが町のなかのスーパーだけの買い物だけで楽しむかと。じゃあいっしょにものを買うならば、ドライブがてら山までいってお茶を飲みながら、話をして、なにかひとつ買おうかなと思う人たちだっているわけです。いまスーパーはすべて郊外にでているよね。もうひとつ先をいまみれば、ここは郊外のまた郊外になるわけ。」

 郊外の郊外、山の中の都。気が付いたら、松井さんの「都」構想を前のめりになって笑いながら聴いていた。震災から7年目のいまも、小さな集落にたくさんの人が訪れる本当の理由は、「水没家屋」ではないような気がしてくる。

 コンビニも、スーパーまでも遠い。積雪3メートルも超える。なにかと不便な山を降りて、市街地で暮らす選択肢ももちろんあった。けれど、住民はこれからも山で過ごしていくつもりだ。それは、自分が生まれ育った村であり、ここで死を迎えたいと願っているからだ。集落に足を運んでみると、住民が山古志村での暮らしにこだわる理由がほんの少しわかった。


「土地と人間」

 災害によって大きな被害を受けたものは、災害の出来事そのものを「忘れたいけれど、忘れてはいけない」ものとして、ジレンマを抱えながら生きることになる。このどっちつかずの感情と向き合いながら、辛い記憶を少しずつ浄化してゆきながら、ゆっくりと気持ちを整理していくものなのだろう。

 だが、木籠の人たちはあえて違う選択肢をとった。水没家屋を残し、被災体験を地域資源として捉えなおした。災害の記憶を忘れることなく背負い続けていく道を選んだのだ。

 痛めつけられた我が家の姿を目の当たりし続けるのは、住民自らを苦しめてしまうものかもしれない。そして、ある種の観光スポット化したいま、震災前に流れていたであろう、のんびりとした時間のリズムは戻ってこないかもしれない。けれど、もう一度生まれ育った場所で暮らし続けたかったのだ。多少の自己犠牲を払ってでも、故郷は捨てることができなかった。それゆえの決意であった。

 何重もの分厚い記憶が染みついた土地にたいする異常なまでの愛情を感じた。福島の人たちのことがふと頭に思い浮かんだ。

 松井さんと別れたあと、小雨が降る山古志を急ぎ足であとにした。

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