2012年4月16日月曜日

水没した家屋と暮らす人々~中越大震災から7年目の新潟県・山古志村のいま~(前篇)

新潟県・山古志村という名をご存じだろうか。2004年に発生した中越大震災で壊滅的な被害を受けた地域として、全国的に有名になってしまった村である。昨年の夏、震災からの復興状況を取材するために、山古志村を訪れた。
 
 そこで奇妙な光景と出合った。山古志村のなかでも被害が深刻であった木籠(こごも)集落に足を踏み入れたときだった。集落の中心部には、数軒の家が転がり、屋根だけが地面から顔出し、無残に傷ついた家が放置されていた。震災から7年も経過しているのに、だ。

 それだけではない。ぼろぼろの家屋を見下ろすかのように、高台になっている場所には真新しい家屋が並び、人々の生活が営まれているのだ。崩壊した家屋は震災の辛い記憶を宿し、忘れ去りたいような出来事を喚起してやまないものであるはずだ。けれども、ここでは人々の生活と同居してしまってる。 


実に奇妙な光景であった。

 想像力の追いつかない光景を前にして、戸惑い、なぜか笑ってしまった。どうしても目の前の状況が理解できなかったのだ。そして惹き込まれるようにこの村としばらく付き合おうと決めた。

 これは、私が出合った奇妙な光景をめぐる記録である。

地震と水害に襲われた村

 前篇の今回は、この奇妙な光景が形成された成り行きを書いていこう。

 山古志村は新潟県長岡市中心部から車で40分走らせたところにある。人口2000人弱、全14集落から構成されている自然豊かな農村だ。四季折々に美しく景観を変えることから「日本の原風景が残る村」とも言われ、多くの写真家にも愛されてもいた。まさに、知る人ぞ知る名村であったのだろう。

 そんな山古志村を一躍有名にしてしまった出来事は、20041023日に発生した中越大震災であった。震源地に近い山古志では震度6強を観測した。山間地域を震源地にして起きたために、山古志村では土砂災害が多発した。美しい景観の棚田や緑豊かな森林は山とともに崩れた。さらには、水道、電話、電気といったライフラインが途絶。山の地滑りにより道路までもが完全に破壊され、村外へ抜ける道は閉ざされた。山古志全域には全村避難の通知が出されて、住民はヘリコプターで村を脱出した。

 木籠集落も例外なく甚大な被害を受けた。それも震災だけではない。水害の被害にも見舞われたのだ。木籠集落には芋川という河川が流れていたが、大規模な土砂崩れによって芋川が堰き止められてしまった結果、天然ダムが発生してしまった。ダムは毎日1メート近くも水位が上昇し、ピーク時には集落の最も低い場所よりも約13メートルも上がったのだ。土台から持ち上げられた家屋もあったという。

 震災から2週間後には、家屋や墓、養鯉場、牛舎など、集落の大部分が天然ダムのなかに埋まってしまった。住民は天然ダムそのものを壊して水を抜いて欲しいという要望を国土交通省に出したが、下流地域への二次災害が大きすぎるとの判断により諦めざるを得なかった。国に建物家屋の財産権を譲ることによって、かつて集落があった場所は河川区域として指定された。ダムの水位が自然に引くまでは、水の中に沈んだ集落の様子を遠く離れた仮設住宅から気にかけるしかなかったのだ。

木籠集落は、震災で村を追い出され、水害によりふるさとの一部を失った。

再び姿を現した家屋

 山古志村は「帰ろう山古志」をスローガンとして掲げ、現地再建のための支援メニューを用意していた。木籠では住宅再建のための支援制度として小規模住宅地区改良事業が適用され、なんとか現地再建を果たすことができた。集落住民が帰村したのは200712月。震災から3年もの月日が経っていた。

 無事に帰村を果たしたといっても、震災前から進行していた過疎・高齢化がさらに加速していた。高齢化率は51%とほとんど変化はなかったが(それでも十分高いが)、26世帯あった世帯数は16世帯に、67人だった人口が37人になってしまっていた。帰村までの3年間のうちに、半数近くの人たちが山古志の故郷を離れて、新天地での暮らしを選んだ。その結果、コミュニティは空洞化してしまい、集落を維持するための活動ですら、住民のみの力では困難になってしまっていたのだ。

 帰村後、集落が急速に過疎化していく一方で、新たな変化も生じていた。水没した家屋を一目見ようと、たくさんの見学者が訪れるようになっていたのだ。

 震災から3年目を迎え復旧作業が進んだ中越地方では、被災状況を目で確認できる場所はほとんどなくなっていた。そのために、水位が下がったもののいまだ放置された状態の水没家屋は、震災の被災状況を伝える数少ない場所として、自治体の視察団や野次馬根性むき出しの一般客の立ち寄りスポットになっていったのだ。

 だが、ぼろぼろな姿で再び姿を現した家屋たちは、多くの住民にとって精神的苦痛を与えていただろうと想像できる。住民のほとんどが、生まれも育ちも山古志村で過ごしてきた。そんな故郷が壊れていく姿を見ただけで胸が締め付けられただろう。さらには、長年暮らしてきた家の傷ついた姿を見続けなければいけないことが、どれほどの精神的負担となるだろうか。見るだけで悲しい記憶が甦ってくるのではないか。住民の一人は、毎日新聞の取材で「つらい記憶なので撤去してほしい」(2008/10/18)と語っている。

 そのような状況下において、家屋を残すことが集落の生きる道だと考えていたのが、木籠区長の松井治二さんだった。

区長・松井さんの決意

 2011年11月下旬、松井さん宅にお邪魔してお話を伺った。

 松井治二(71)さんは山古志闘牛会会長・山古志観光開発公社代表取締役の役職を担う山古志村を代表する人物である。自宅に到着すると、紺色のジャンパーを身にまとった松井さんが笑顔で出迎えてくれた。71歳とは到底思えないほど体格がしっかりしている。そして、山古志生まれ山古志育ちでありながら、ほかの住民の方に比べてあまり方言が強くない。インタビュー慣れをしているのかなと思ったほどである。

 世間話をしばらくした後、水没した家屋の話題になり、松井さんは静かに語った。

 「失くしてしまったらもうまったく、それで終わりのとこ〔集落〕になるから。残しておくことによってまたそれはなにかの、ねえ、活かせることはあるから。ないものは活かせないけど、あるものは活かせる」(〔〕は筆者補足)

 そう、松井さんは水没家屋をまさに活かしたのだ。集落を終わらせないために家屋を撤去せずに活かす必要があった。どういうことか。

 帰村後、急速に過疎化した木籠は自力で集落を維持することすら困難であったことは先ほど述べた。その状況を打開するために、松井さんは水没家屋を目当てに見学に来る人々の力を活用しようと考えた。水没家屋をきっかけにして、集落自体に興味をもってもらい、一過性の訪問だけではなく、継続的に村づくりに参加してもらおうとした(詳しくは次回述べるが、準区民の会というものを組織化して外部の人を巻き込んだ集落維持活動を行っている)。集落を「終わりのとこ」にしないためにも家屋を残す。水没家屋を通して生まれた人との繋がりこそが、集落に残された存続への道であったのだ。

 松井さんは話を続けた。

 「言うてみれば、村の人が反対したこのことがまた大きな得になっているんです。みんなが賛成して残しましょうというと話題にならない。みんなが反対することによって、いろいろな賛否両論がでて、それをマスコミが興味をもって取り上げることによって、またそれがイメージが大きくみんな伝わるだけです。だから反対というのは、まことにありがたいことです。(中略)反対というのはこれほど価値のあるものなのかと。みんなで賛成ですといってもだれも興味もたないよ。みんなが反対なのに、そこに現実として残っていることに意味があるんだ」

 私は動揺した。したたかすぎるほどに、戦略的であったからだ。それは、冷酷とも取られてもおかしくはない発言でもあった。

 「話し合いのときに反対の声もあがってきますよね、そのときにもう残せないといいう思いはなかったのですか」

 松井さんの語りに困惑しながらも沸いてきた疑問を訊ねた。

 「みなさんが理解できないのならばよいと。でも残してもいいと思う人のものだけ役所から拾い上げてもらって。最初はカンカンに怒って、村中の人みんな怒ったね。そこに強さがあるのは、自分の家があるということです。人のものだけで、みんなの残しましょうというのは説得できない。自分の家があるから、我慢しようやと」

 私の目を見て、笑顔で淡々と語った。

 松井さんの家も水没してしまったことは以前から知っていた。ドキュメンタリー映画『1000年の山古志』のなかで、水没してしまった我家を前にして涙を流す松井さんが映し出されていたからだ。松井さんにとっても傷ついた家屋を眺めるのは辛いことだったに違いはない。けれども、集落存続のためにもどうしても家屋を残す必要があったのだ。

 それは、集落の「いま」だけではなく、「これから」のことを見据えた決断であった。会話のなかで「50年後」、「100年後」というフレーズを頻繁に使っていたことが印象的だった。 一見冷酷に聞こえた発言も感情の冷たさから来ているものではない。長きにわたる集落の存続を誰よりも願い、その覚悟から発言されたものだったのではないか。笑顔で淡々と語る松井さんからは、青く燃えた炎に似た熱気を感じる。

 数回にわたる住民会議により、水没した家屋14棟中9棟を残していくことが集落の意見としてまとめられた。20088月のことだ。松井さんの熱意に押されるかたちで、帰村した住民たちは、集落存続のために水没家屋と暮らしをともにすることを決断したのだ。

 奇妙な光景はこうして形成されていった。

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